Acts0501-11 210725久『サタンに心を』 the Acts of the Apostles アナニア。ハナヌヤのギリシャ語音訳でだと、新聖書辞典に書かれていました。ヘブル語の ハ ヌーン ヤ(ハウェ)が、アナニアと表記されます。ギリシャ語は ハナニア、「ハ」です。発音の関係で、アと聞こえるからでしょう。詩篇145篇8節に、『主は情け深く あわれみ深く』とありますが、ハ ヌーンは「情け深く」と訳されています。けれども今回、アナニアは、その名の通りに扱われることはありませんでした。犯した罪に対して情け深く寛大な措置とはならなかった。結果から見れば、なんとも皮肉な名前となりました。 アナニアは、その名を呼ばれるたびに、「主は情け深い」という声を聞かされて生きてきたでしょう。毎日です。なのにどうでしょう、彼はあわれまれたでしょうか? 情け深い主の声を聞いたでしょうか? それに、アナニアはいったい、何の罪を犯したのでしょう? どんな罪を犯したのか? この世の法では裁かれない罪です。被害者はいません。全額ではなかったかもしれませんが、献げた分は感謝されてもいいのではありませんか? そもそも、主イエスの十字架は、私たちが日々犯してしまう現実の罪も、原罪、original sin もすべてのためにあったのではありませんか? 私たちは、主イエスの十字架の死によって、罪を赦された。そう信じています。アナニアはそうじゃなかったのでしょうか? それとも、私たちの受けた救いとはこんなにも脆いもの、私たちの行い次第で、救いから落ちるような不安定な恵みなのでしょうか? そんなはずはありません。洗礼を受け、礼拝に通っていることが信仰ではないし、久我山キリスト教会の会員だということが救いを保証し、裁きを逃れさせるのでもありません。私たちに信仰を与え、救いに召してくださり、洗礼を受けさせ、聖礼典にあずからせ、信仰を固く保たせてくださるのは神です。地上にあっては特に、神の聖霊によることです。では、アナニアはいったいどうして‥と、サッピラのことをどう考えたらいいのか‥と、考え込んでしまう人は少なくないでしょう。 今日の箇所からわかることは、アナニアとサッピラがなにをしたか、そして、どうなったかです。皆さんは、こんなことでコロッと死ぬなんて、自分は大丈夫か?と心配するかもしれません。が、ほんとにそう考えたことがありますか? そういう人がいたらお聞きしますが、本当にアナニアのような罪を犯した記憶があるのでしょうか? 謙遜な思いで、自分自身の偽善的なことを悔いる人はたぶんいると思いますが、アナニアはそうではなかったのです。サッピラは胸をはって言ったでしょう。全部献げましたと。 「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。」と書かれているとおり、アナニアとサッピラの死をその目で見た人たちと、教会の外の人たちも、え?なんで、何で死んじゃった?と驚き、恐れさせられた。教会の外の人はそのような神の偉大さに震えた。 ほんの少し前、この事件が起きるまで、教会の歩みは順風満帆、大きな恵みを目にしてきた。聖霊降臨という見えるしるしが与えられ、足の不自由な人が回復されたことに、初代教会の歩みが重ねられ、聖霊によって与えられた信仰が、私たちのうちに生き生きと働かされ、それぞれ具体的なささげものによって支え合う、すばらしい交わりとなり、目指すべき教会とはこういうものだ、素晴らしいものだと思えてきたのに、見えてきたのに、前途洋々に見えたのに、なぜ、こんなことが‥。 アナニアとサッピラの事件が与える衝撃は小さくありません。他のどんな事件より大事件に思います。だからなるべく触れたくないし、オブラートで何重にも包みたくなる。みなさんはいかがですか? けれど、これほどの教訓、みせしめとしてある死を見過ごすことはできません。ところが、あまりに厳しい出来事に恐れをなしたのか、たとえばアウグスチヌスは「ふたりは地上的な罰を受けたので、永遠の罰はまぬがれたであろう」(バルバロ注解書)と言ったようです。気持ちはわかります。 では、1節をごらんください。 Acts 5:1 ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、 Acts 5:2 妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。 ここまではなんの問題もありません。「代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って」行く。それはいいことじゃありませんか? 久我山の土地なら、数千万です。半分でもかなり多い。十分の一だとしてもけっこうな額になります。と、そういうことではありません。 章はあらたまっていますが、「ところが」とあるように、4章終わりのバルナバの記事に続くものです。バルナバが畑を売った金を全額差し出し、その行いが人々に称賛されたのを見て、アナニアは同じようにささげ、同じように認められようとした。自分のためにそれをしたのです。 アナニアは、財産の一部を、土地を売り、その金を教会の働きのために差し出そうと夫婦で話し合った。それは良いことです。違いますか? たとえそれが、土地を売って得た金の一部だったとしてもです。ところが、これこれの土地を売って得た「全額」だと言った。‥とは書かれていません。実は、アナニアはただのひと言も発していないのです。偽るもなにも、ひと言もしゃべっていない。ルカが書いていないだけでしょうか?(カルヴァンはペテロがそれを知ったのは聖霊によることで、つまり、アナニアは何も言っていないと考えているようです。) Acts 5:3 すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。 「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ」と訳されていますが、原文を見ると主語は「サタン」です。なぜ、サタンがあなたの心を満たしたのか?というのが直訳です。サタンはアナニアを誘惑し、その思いでアナニアの心を占めさせた。その思いとは、「地所の代金の一部を自分のために取っておくこと」でしょうか? そのお金はペテロが指摘しているように、自由にしてもよかったのです。アナニアは、地所の代金の一部を自分のために取っておき、全部ささげたかのようにふるまうことが、聖霊を欺くことだと知って、そうする思いに心が占められたのです。 なぜ、サタンはアナニアの心を満たすことができたのか。その心を悪い思いで占有できたのか、みなさんならおわかりでしょう。聖霊の宮たることを忘れ、聖霊の宮たることを願わず、聖霊に満ちあふれることを求めることがなかったからではないでしょうか。 アナニアが見ていたのは、不思議なわざ、ちからあるわざ、バルナバに対する称賛の声。自分もバルナバのように思われたかった。人のためはついでのこと、お金で名声を買おうとした。自分の思いを満たすためにそれをささげた。しかも、ケチなことに全部でなく、一部を残してもいた。アナニアはサタンに誘惑されたのだから同情できると思いますか? アナニアの罪は、アカン(ヨシュア記7章)のそれと同じと考える人もいます。アカンは聖絶を命じられたエリコの町の、聖絶の物が欲しくなり、それを盗んだという事件です。けれども、アカンの犯した罪と、アナニアのそれは少し違うでしょう。アカンは主に献げる聖絶のものの中から盗んだのに対し、アナニアは命じられた捧げものから盗んだのでなく、「偽善」を責められたのです。その偽善は、サタンに心を占められた結果でした。サタンはアナニアの心に直接ふれたわけではありませんが、アナニアはサタンの思いを好み、心を明け渡したのです。あろうことか、聖霊をたばかった。欺いたのです。 皆さんご存じの通り、ルカ12章10節には 『人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されません。』 と書かれています。聖霊を冒涜すること イコール 聖霊を欺くことだと言うのではありません。聖霊を欺けると考え、あたかも聖霊による善を、良い業をなしたがごとく、実際にはそれから欠けたものを献げたこと、それが問われたのです。赦されなかったのは聖霊を前に働いた偽善です。 アナニアはサタンに心を占められ、結果からわかることは、聖霊を欺く目的で土地を売り、その代金の一部を残したまま、全部を献げたように装ったのです。(ほんの少し、アカンが聖絶のものの一部を盗んだのと似ています。)アナニアの捧げ物は、一部、欠けていたのです。(主イエスは神の義を行ったにもかかわらず、イエスは汚れた霊につかれていると罵った者たちに対し、聖霊を冒涜していることを指摘している。(マルコ3章30節)) カルヴァンは聖霊を欺いたことについて、「聖霊にかこつけて偽善を行った」「聖霊に対して偽った」の、二つの意味に解することができると言い、恐らく後者、「聖霊に対して偽った」のだと言います。確かに、問われているのは聖霊を欺いたことです。聖霊を欺くことができたと思い込み、だからこそ偽善を働くことができたでしょう。偽善でなく、偽りない善なる行いとしてです。アナニアは、見せかけではない、良き働き、良いわざとして一部を残してささげたのです。 個人的なことをお話しすると、私は自分の中に善が住んでいないのだから、やることなすことすべて偽善と考えますが、それと、アナニアの働いた偽善は同じものでしょうか? たぶん違います。アナニアは聖霊をたばかったのです。アナニアは、全部と言って、欠けているそのわざを、バルナバのように装い、聖霊によって善をなしたと胸を張ったのです。土地を売った代金のすべてですと言って‥。私は、自分のその行いが偽善的であること、どうやっても心の思いが聖霊を悲しませてしまうことを告白させられるのであり、正しいこととして働きを献げているのではありません。誠実でありたいと願いつつ、できるかぎりを献げるだけです。こんなふうに考えるのは、アナニアの受けた裁きを知っているからです。 Acts 5:4 売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 Acts 5:5 このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。 Acts 5:6 若者たちは立ち上がって彼のからだを包み、運び出して葬った。 アナニアには弁明すら赦されなかった。それは厳しすぎると思いますか? 見せしめなので、特別に厳しかったということでしょうか? 確かに、アナニアに対する刑罰は特別のことです。カルヴァンのことばを借ります。 「ある人が、この刑罰は残酷すぎたと考えるのは、神のはかりによってでなく、自分たちのはかりでアナニアの罪を量るからであり、アナニアの犯した大罪を、小さなあやまちと考えるからなのだ。ほかの人たちはこれを作り話だと考える。それというのも、私たちが毎日見るように、多くの偽善者がアナニアのしたのに劣らず神をあなどっても罰せられないこともあり、それどころか、彼らがひどく神を軽視しても、その重大な背信についてとがめられないことがあるからだ。しかしながら、神は、みたまのひそかな力によって共にいてくださることを私たちが知るために、まず初めに教会の中に、見える恵みを惜しげもなくお注ぎになったように、わたしたちが信仰の経験を通して心の中に感ずるものを、外部のしるしによって明らかにお示しになった。同様に神は、神ご自身と福音とをあざける偽善者にはすべて、どんなにか恐ろしい審判が準備されているかを、この二人の、目に見える刑罰によって立証なさったのだ。」  アナニヤはその計画を妻、サッピラに話した。二人は話し合い、「それは名案」と考えたのでしょうか? 話し合った。けれど、祈りつつ、聖霊に促され、導かれた答えではなかったのです。二人には、聖霊による働きがどのようなものか、バルナバによって模範が示されていた。それにも関わらず、二人は聖霊を欺むくことを決めた。聖霊を侮り、冒涜したのです。欺けると思うことがすでに嘲っているのです。神の前に隠されていることは何も無いと知るべきです。 アナニア、そしてサッピラは、それぞれ自由な意志で、神に導きを求め、御心に従い、それを第一とする生き方より、示された神の導きに逆らうことを好んだ。そのくせ、あたかも御心に従っているかのようにして神を欺き、人を欺き、自分の心に忠実に生きる道を選んだのです。その結果は悲惨なものでした。 7節から11節 Acts 5:7 さて、三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。 Acts 5:8 ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。 Acts 5:9 そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」 Acts 5:10 すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。入って来た若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運び出し、夫のそばに葬った。 Acts 5:11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。 サッピラ。美しいという意味をあらわすアラム語「シャッピーラー」の音訳。サッピラと呼ばれるたびに、「美しい」と言われる。日本でも美子さんはいますが、もっとストレート。名前を呼ばれるたびに天狗になりそう。その美しさが心のことだったら良かったのに‥。サッピラが心の内側も聖霊によって美しく整えられていたのであれば、サッピラが神の御心を伺い、神に従うことを望み、アナニアも罪を犯さずにすんだかもしれません。けれど、結果は書かれている通りです。罪状はアナニアと同じでした。夫の言いなりで罪を犯したのではありません。与えられた弁明の機会、悔いるための時間は、サッピらも夫と同罪だったことを、教会がその目で確認するための時間となりました。神の裁きがいかに正当なものであるか、教会が知る機会となったのです。 「神がサッピラに与えた刑罰は、それが見せしめのための一層大きな確証となった以外には、何ら新しい出来事ではない。この二人の不正な心と片意地な悪意とが、教会全体が見ている前でそれぞれ罰せられたことは、神の確かなみこころによったのである。二人とも別々に背教と偽善とを一層あからさまにした」と、カルヴァンは言います。さらに、「アナニアとその妻は、一つの死に値するだけでなかったことを十分に示して余りある。」と、もっと恐ろしいことを指摘しています。「二人が肉体的に受けた刑罰によって、わたしたちにまだ隠されている霊的な審判の重大さが、鏡に映すように示された」こと、聖霊によって教会に許された権限、つまり、戒規にあたるそれを軽んじ、侮り、欺けると考えるのは、浅はかなことと知るべきでしょう。 以上ですが、何が問題だったか、最後にもう一度考えてみてください。 サタンは神の御心から私たちを引き離し、この世の思いで誘惑します。それに対し、神の聖霊は、私たちを霊的なこと、永遠のことへと導いてくださるでしょう。サタンの思いは、神に逆らうことだけ。たくらみは最初から悪いのです。十字架の救いを不要なものと高ぶらせ、行いによって救われるというとんでもない考えを、行いによって喜びを味わわせることで勘違いさせ、そうやって神から与えられる恵みの喜びから引き離すのです。 アナニア、そしてサッピラは、教会の頭なるキリストを少しも尊ばなかった。いのちの主、キリストを必要としなかった。求めなかった。神を恐れないこと、聖霊を馬鹿にしていることを、その行いによって露わにしていました。人の目に良いとされる行いで悦に入り、良い働きで罪を白く塗り、それぞれの罪を否定し、行いによる義で、自らを救ったつもりになった。いのちを感じたかもしれません。生き生きと生きられることにです。そして、その偽善が人から賞賛されることで、さらに確信させられ、迷いから抜け出せず、あろうことか貧しい人たちを見下すようにもなったでしょう。 二人は十字架を否定し、福音を侮った。キリストを否定する者が、教会の中で偽善の善を働いていた。ペテロがそれを見抜き、罪を指摘できたのは聖霊によることでした。その権能は、戒規として教会に与えられていること、聖霊によることであるなら、私たちは日々、聖霊なる神に心を満たしていただくことを思い、願い、祈ることが求められます。そうしなければ、私たちも偽善の罠、サタンの策略にやられてしまうかもしれません。 ※偽善について、マタイ6章を見ること。